穴があったら入りたい

気になった非実在の男と男の関係を追求する女の別宅です

現場のオタク、社会の現場に向き合う。そして二次創作のこととかOtaku Life Goes On

 こんばんは。

 今年もアドベントの季節がやってきました。

 アドベントといったら待ちに待った #ぽっぽアドベント ですね。

 2回目の開催にして、すでに年末の“俺たち”の恒例行事の感があります。

 はとさん、今年もオーガナイズ誠にありがとうございます!!

 

adventar.org

 

adventar.org

 

adventar.org

 

 改めまして、12月22日担当のシュン太郎ちゃんです。

 2ではきやま☀かんみやさん、3ではヘ゛ヘ゛さんが担当されています。

 

 去年も参加させていただいた #ぽっぽアドベント ではこういう記事を書きました。

anagaattarahairitai.hatenablog.com

 

 

はじめに

 さて今回のテーマは「変わった/変わらなかったこと」ということで。

 

 このテーマをいただいてから、ずっと何を書こうか悩んでいました。

 自分の中ではとっくに決まっていましたが、それを本当に書いていいのか、書くべきかどうかは悩んでいました。

 こんなことを書いたら、きっとこのタグの祝福ムードに水を差す。

 でも、日常が破壊されきってしまった人がいるのに、それを忘れておくことができなくて。

 

 「ここではこのことは書かずにおこう」というのもひとつの気配りだと思います。

 しかし、私はこれまでのこの日本社会で「良識」とされてきた「政治の話は無粋だから公共の場で行うべきではない」という圧力に対して全力で抗っていきたいと決めたので、その種の「気配り」は行いません。

 そして、「推し」を全力で推したいすべてのオタクに宛ててにこそ、私はこの文章を書いておきたいと思いました。ここまで読んだ段階で気に障った方は離脱してください、と言いたいところですが、ところがどっこい、そういう人にこそ読んでもらいたい記事ではあります。

 「推し」を楽しく全力で推すために、私もあなた自身も社会に脅かされてはならない。

 私の「推し」もあなたの「推し」も社会に脅かされず、健やかに、安全に暮らしてほしい。

 そして私はそのために何ができるのか……ということをこの12月に入ってひとりでずっと考え続けています。

 余計なお世話だとか、偽善者だとか言われる気はしますけれども、少しでもいいから誰かに届くといいな、と思ってこれを書いています。

 

 私の「変わったこと」。一介のオタクたる私/個人がどのように公共/社会と関わっていくか、その距離感。

 「変わらなかったこと」。昨年、再びできるようになった二次創作にこの状況下でいかに生かされていたかということ。

 この二つについてお話したいと思います。

 

 さて、昨年の #ぽっぽアドベント で私は結びにこのように書きました。

こんなご時世です。来年はどうなっているかわからない。 よしんば来年社会がどうにもなってなくても、もうわたしが文章を書くことはなくなっているかもしれません。

そしてこの自由は果たしてどれだけ続くでしょうか。 もしかしたら、案外すぐに取り戻した自由を放り出してしまわないといけないのかもしれません。

とあるやおい映画に性欲がバグった限界バツイチやおい女によるA Long Long Confession, または二次創作という名のShipper’s Delight(2019年12月24日の記事アーカイブ)) - 穴があったら入りたい

 

 書いたそばからコレだよ、というような2020年でしたね。自由、思ったよりは続かなかった。そもそも、自由など端から存在せず、社会から目を背けていただけにすぎなかったのかもしれません。

 

 2019年12月24日の段階で、2020年の社会とあるべきコモンセンスが破壊され、いやそれは前からそうでしたけど、社会を立て直す自浄作用がここまで残されていない……とは本当に思いもよりませんでした。

 

 2020年初から始まったCOVID-19によるパンデミックによる影響は、2020年末においてもいまだ収束されておらず、依然としてコントロール不能な状況が続いています。

 政府はこの感染状況を食い止めようという努力も、またこのコロナ禍を発端とした失業者対策を行う気はなく、自分とお友達の利権をいかに拡大するか、いかに税金を中抜きしてお友達と山分けするかという政策立案にだけ汲々としており、失策の責任を一切取ろうとはしません。

 

 そんな状況でついに堪忍袋の緒が切れ、私は今年、ささやかな抵抗を試みました。

 これはその抵抗の記録でもあります。

 

事態の推移

 

 経緯を軽く振り返りたいと思います。時系列は報道記事等を確認しながら書いておりますが、とてもすべては書ききれず省略している出来事もございますし、あくまでも東京在住の独身の会社員で、映画や芝居を観、二次創作をするオタクの私から見た2020年です。他の立場の方々からは、フォーカスすべきことが違っていると思われることもあるでしょう。そうだとしたら、ぜひご自身の立場から語っていただければ幸いです。

 

 そもそも私は内閣発足時から安倍政権の強権的な姿勢に危機感を抱き、特に近年は政権批判や選挙に際しての呼びかけを行っていましたが、モリカケ桜問題をきっかけに声を上げる頻度がどんどん上がっていました。

 新聞社に投書を試みたり、Twitterで声を上げたり、記事をRTし批判する頻度も上がっていきました。

 そんな最中のことでした。

 

 1月16日に日本国内で最初の陽性者が発表されてからしばらくは、ここまでのことになるとは予想もできていませんでした。

 2月5日、ダイヤモンド・プリンセス号での集団感染が発覚。乗客・乗員を船内に留め置いたこと、また2月19日から始まった乗客の下船後の対応など、政府の初期対応に国内外から非難が相次ぎました。*1

 

 2月26日、PerfumeEXILEのライブを嚆矢に大型イベントの中止が要請されました。

 やがて私も行く予定だったいくつかのお芝居が順次中止となりました(以下はあくまで私が楽しみにしていた公演を恨みがましく並べただけで、必ずしも時系列は開催順・中止された順ではありません)。

 

 バッドシェバ舞踊団、それもオハッド・ナハリン芸術監督の最後の演出公演。WEST SIDE STORY明治座 三月花形歌舞伎(七之助の桜姫…!)。シルヴィウ・プルカレ−テ『スカーレット・プリンセス』。森山未來主演『未練の幽霊と怪物』。赤坂大歌舞伎『怪談 牡丹燈籠』。それとイヴォ・ヴァン・ホーヴェ来日公演『ガラスの動物園』(イザベル・ユペール様とナウエル・ペレ・ビスカヤ―の来日めちゃくちゃ楽しみにしていた)……! などなど。

 ここに書いたことに特段の意味はないですが備忘録をかねた無念の供養です。南無。

 

 そして私のもう一つの生きがいとも言える宝塚の公演も。

 その時上演されていた雪組『ONCE UPON A TIME IN AMERICA』も3月22日の東京宝塚劇場公演千秋楽を待たずに中止となり、以降宝塚歌劇団も長い休止期間に入ります。

 私も2月初旬に宙組公演『エル ハポンイスパニアのサムライ-/アクアヴィーテ!!』でSS席2列目センターを引き当て、トップスター真風涼帆さんの指差しウィンクをバチコーン★と被弾して以降、取れていたチケットはすべて水の泡となり、8月末まで長く舞台を見ることはありませんでした(指差しウィンクのくだりは別に言わなくてもいいけどただ自慢したかっただけ……俺は宙組トップスター真風涼帆様の指差しウィンクを被弾した女だということを自慢したかっただけ!)。

 

f:id:shuntaro-chan:20201220000410j:plain

宙組トップスター真風涼帆さまとトップ娘役星風まどかさん。

  効力のある防疫対策はなにひとつ取られないまま、2月末、安倍首相による独断専行での休校要請が行われ、それと前後して弊社も在宅勤務が開始しました。

3月11日、政府がWHOにCOVID-19対策として46億円(!)拠出したことがテドロス事務局長の謝辞で発覚しました。*2

  しかしこのタイミングでは、突然の休校要請にも保護者らの休業補償は行われませんでしたね。

 3月13日、新型コロナウィルス対策の特措法が成立。緊急事態宣言が可能になりました。

 3月23日、新型コロナウィルス緊急経済対策として30兆円の事業規模を発表。しかしこの段階で「国民への現金や商品券の支給のほか、外食や旅行代金の一部を国が助成することを検討」と報道されました。

this.kiji.is

 そうです。すでにこの段階で「はい?」となる要素が入っていますね。「商品券」「旅行代金の一部を国が助成」……とは?

 3月24日、2020東京オリンピックパラリンピックの延期が発表。

 3月25日、東京都では週末の外出自粛が要請されました。その間の飲食業・サービス業・イベント業者・フリーランス個人事業主への休業補償はありません。

 同日。「和牛消費、喚起へ『お肉券』 自民経済対策」という記事が出ます。

www.jiji.com

 

 この緊急事態にあって、お 肉 券 。

 キッザニアにやってきたわんぱくキッズでももうちょっとまともな政策打つやろ。

 

 翌26日には、「お肉券だけだとバランスを欠くよね…」とかなんとか思ったらしく、国産魚介類の商品券も提案されました。いったい何とのバランスだというのでしょう。族議員間か?

www.kyoto-np.co.jp

 おさかな券。この状況で、特定業界団体の利権にしかつながらない政策しか出してこられないわけです。この国では利権の配分のことを「政治」と呼んでいた。だからそれしかできない。自民党お待ちかねの有事にあって、身内での利権の配分以外に何もできないことがはっきりと露呈しました。

 

 お肉券の報道が出て、とうとう私はぶち切れました。いや前から切れてましたけど……。

 そして最初の抵抗に踏み出します。

 

ハッシュタグ・アクティビティと請願権の行使

 

 最初の抵抗。それは「#利権政治にNO」というハッシュタグを作ったこと。

 いわゆるハッシュタグ・アクティビティです。

 このタグで社会の怒りの声を可視化したいと考えました。

 

 最初のツイートはこれ。

 

 そして呼びかけ。

 

 同時に、上記ツイートにあるように、この可視化した怒りの声を国政の場に届けるべく、私は請願権の行使を計画します。

 

 請願は、国民が国政に対する要望を直接国会に述べることができ、憲法第16条で国民の権利として保障されているものです。国籍・年齢の制限はありません。したがって、日本国内に在住の外国人の方及び未成年の方も請願することができます。

 

 請願と陳情は似ていますが、議員の紹介により提出するものを請願と呼びます。

 私はこの国民の権利を行使しようと思ったわけです。

 その晩のうちに、私は請願書を書き上げ、翌朝、伝手をたどってご紹介いただいたとある参議院議員さんに請願の取次をお願いすることになりました。

 

 私が取次をお願いしたのは、共産党のとある実力派女性議員さんです。女性の秘書さんが大変親身に対応してくださいました。内容を見ていただき、党のチェックを仰いでくださることになりました。これにはかなり時間がかかってしまいましたが、私はハッシュタグを盛り上げることに腐心しながら辛抱強く待ちました。

 そして、それと同時に、各種政党や地方自治体の問い合わせ窓口に要望や批判を送ることを日課とするようになりました。

 

 3月27日には文化庁から「文化芸術に関わる全ての皆様へ」と題された謎声明が出ました(しかもなんかガビガビの画像!)

www.bunka.go.jp

 それを見た俺。

 

 この段階では、俺達現場のオタクが超お世話になってる文化芸術・エンタメ業界の皆さんには何の補償も検討されていませんでした。本当にこの声明が出ただけ。

 

 同日。2020年度予算が成立。

 新型コロナウイルスの感染拡大に対応するための予算は「予備費」として盛り込んだ5000億円から今後策定する緊急経済対策の財源を充てるとされました。自粛要請から1か月経ったのに、予算ではなく予備費に盛り込まれただけ。具体的な予算は一向に決定していません。補正予算案も策定されていませんでした。*3

 

 3月29日、「#自粛と給付はセットだろ」というTwitterデモが開かれ、私も参加しました。

 

 

 補償を求める市民の声はどんどん高まっていきました。

 このあたりで、社会の圧力がようやく届き始めたのか、与党内で現金給付案が言及され始めます。30日には、例のお肉券・お魚券構想が頓挫しました。*4

 

 3月31日。イベント業者に対する税制面での支援としてチケットを買った人が事業者に払い戻しを求めなかった場合、寄付とみなして購入者の税負担を軽減する検討に入ったと報じられました。結局政府は補償するつもりはなく、チケットを買ったお前らオタクが支えろよと丸投げしたわけです。

 

 これを見た俺。

 

 「推しを人質に取られてる」ってこういうときに使うんだよ。マジで。

 

 4月バカの4月1日。ついにあれがきます。

this.kiji.is

 ジャーン! 布マスク、1世帯あたりにつき2枚配布~!

バカ野郎!!!!!!!!!!!!!!!

 

 この第一報を見た瞬間の憤怒、筆舌に尽くしがたい。頭の血管がきれて憤死とかしてもおかしくないと思った。

 あまりの事態に、この段階でまだお返事がきていない嘆願書に布マスク中止の要請を盛り込むことにしました。本来であればお返事がきてから盛り込むべきですし、その結果嘆願書が却下となる可能性もありましたが、あまりにもあまりの事態なので、秘書さんに相談の上入れました。その上で、窓口のある与党議員に片っ端から中止の要望を送り始めます。

 

 そしてようやく、4月3日。

 ようやく請願の取次の許可が下りました。私は即座にTwitter上にて賛同人を募集し、手書きに限られた署名を手書きで写し始めます。

 4月7日。7都道府県の緊急事態宣言の発令。

 そうして休業補償のない外出自粛が始まりました。

 

 4月8日。不要不急の外出の自粛要請が出ておりますが、不要不急ではない国政ブッ込みチャレンジ中だったので半日休暇を取って議員会館の当該議員さんの事務所まで嘆願書を提出に向かいました。

その日は晴れて暖かく、人がほとんどいない永田町は異様にうららかだったことを覚えています。自転車に乗ったおじいさんがゆっくりと自民党本部前を走っていきました。

 

 

 請願は受理され、審議にのり、請願がなされたという記録は残ることになりました。

3日にわたって募集した賛同人は、最終的に457名様に上りました。ご協力いただいた皆様、多大なお力添え、本当にありがとうございました。

  このような形で私の国政ブッ込みチャレンジはひとつの山場を越えました。

 

 その後、給付金は給付されることになりました。その決定はあまりにも遅かったですし、また給付は世帯ごと・家長にしか受給権がないなど、その方法はあまりにも問題があったとはいえ、お肉券とかおさかな券とかを握らされて干上がるよりは「「「「百歩譲って」」」」なんぼかマシでしょう。

 

 私のこの活動は些細なことです。意思決定のプロセスに対して、直接的な効力を持ってはいないでしょう。私にとってはもったいないほどに多くの皆様のお力添えをいただき、その方々に対しても社会に対しても重い重い責任を感じましたが、国政の場においては限られたものだと言われてしまうでしょう。

 それでも、私が「#利権政治にNO」というタグで声を上げようと呼びかけたことで、声を上げ始めた人もいたんじゃないか、声を上げていいと思うことができた人もいたんじゃないかと、思ってもいいでしょうか。

 

 そう言っていいならそれはひとつの「成功」です。

 TwitterSNSハッシュタグを使って「声を可視化すること」、

 政治家に陳情というかたちで直接苦境を訴えること。

 政党や議員の問い合わせ先に批判や要望を叩きつけること。

 パブリックコメントを寄せること。

 それらは一定の成果があると、強く思います。

 

その後、そして今の葛藤

 

 その後も「#検察庁法改正案に抗議します」をはじめとするハッシュタグ・アクティビティが起こり、幾度かのデモが行われました。私もTwitterデモだけではなく#0513国会前スタンディング#国会個人包囲0515 でリアルデモに参加しました。特に国会個人包囲デモは国会議員も数名参加した大規模なものでした。

 結果、通常国会での本法案の成立は断念されました。

 

 一方しかしご存じの通り、同様に激しく抵抗された一世帯につき2枚のカビの生えた布マスクa.k.aアベノマスクに関しては国民の抵抗を聞き入れることなく、結果的に466億円(4/9日段階)の予算を計上し配布を決定。最終的な費用については1憶2000万枚に約260億円と厚労省から発表されていますが、マスク単価は開示されていないこともあり、この数字が信頼に足るものか否かは私には判断できません。*5*6

 

 このように自分のお友達に税金を流すためには、国民がどれだけ反対しようといかに非合理であろうと絶対にやめないようです。

 民意を無視して身内の利益に国民の税金を流すのは、自民党はもはやパブリックエネミーまたは公共の敵と呼ばれても仕方ないのではないでしょうか。

 

 たとえば4月16日、経済同友会桜田謙悟代表幹事による「電子マネーでの給付が望ましい」との発言がありました。*7

  

 また持続化給付金は電通パソナら「お友達」企業が再委託・外注をが繰り返す多重下請け構造を作り、税金を中抜きし、大きな利益を分け合うという構造になっていました。*8

 

 二階派の肝入り「Go Toトラベル」は大手旅行代理店など中間業者に税金が落ちる仕組みで末端の旅館やホテルなどに直接的に支援が行き届くものではありませんし、また感染が収束していない状態で、医療機関や医療従事者への支援策より先だって行うべきものでは決してない。ようやく一時停止が発表されたものの、12月15日の臨時閣議で政府は2020年度第3次補正予算案を決定し、Go Toトラベル事業継続には1兆311億円が計上されました。*9

 

 いずれにせよ、何か政策が提案されるたびにこういう手合いの利権に利益誘導されたり、現実の感染状況を度外視した景気刺激策で利益を得ようとする動きが真っ先に起きる。まともに政府が正常に機能しているとはとても言えません。社会保障すら強者の利益のために利用されてしまう。この政党を選ぶこと自体をやめないと、今後もこのようなことは継続されるでしょう。

 

 こうした動きが止められないということから、私や他の方々の行ったことは「何の意味もない」のでしょうか。

 

 政治に対するアクションは、その法制なり政策なりが止められなければ失敗だというのであれば、このアクションは確かに失敗でしょう。

 こうして政権批判をしていると、冷笑家から冷笑主義と嘲笑われたりしましたし(しかしいまだにその主張の理路が私には理解できないんですが……自己紹介かな?)、「選挙に行け」と言われたりしました。選挙に行かなかったことは一度もないですが。

 ついでに言うと、支援したいNPO活動や政治家、芸術文化関係にもわずかながらカンパや寄付も行っています。

 

 上記に書いたように「そもそも問題のある政党・国会議員に議席を与えない」ということはもちろん政治の一丁目一番地でしょう。

 しかし、選挙が常にあるわけではありませんし、国民の要請で国政選挙が行えることはありません。選挙には決まったタイミングがありますし、そうでなければ政権与党の選挙戦略の裡でしか決まりません。与党が総選挙のタイミングを決めるまで、それまで何のアクションもせずに、お肉券とかおさかな券とかを握りしめて干上がるのが正しかったのでしょうか。

 

 選挙戦略はそもそも、圧倒的多数を与党が担っている状態においては与党が圧倒的優位です。

 

 選挙のみが民主主義で認められた市民の政治関与への手段だと言うならば、圧倒的多数の与党が数にものを言わせて非民主主義的プロセスで政権運営を行っているという非民主主義的で著しく公益を損ねる事態が進行している時、選挙で選んだからといって一切批判せず、黙っているべきなのでしょうか。それが民主主義なのでしょうか?

 

 いいえ。絶対にそうではありません。

 

 政治に関与する手段を市民自ら選挙のみに限るのは、民主主義で認められた権利を自ら手放すことです。

 

 国と国民の間には契約があり、選挙で代表者を決めて一定の範囲で信託し(間接民主制)、税金を納めて国の運営を任せているのであって、国は国民の主人でも社長でもなく、代表者は選挙で選ばれたからといって何をしてもいい権利を与えられているのではありません。ただ代表者として、自分を選んだ国民の意思を国政に反映させるための仕事をすべきなのです。

 

 選挙で選んだ代表者が不正を犯すということは、国民に対する契約違反です。

 そして、代表者が国政において契約違反を犯した時に、国民はどうすべきか。

 

 #BLM に関連しての記事ですが、『カブール・ノート』の著書を持つ国連難民高等弁務官山本芳幸氏のブログ記事に印象的な記事がありました。

 

 「国」と「国民」の間の約束を維持するために、なくてはならない最も重要な機能の一つが抗議なのだ。約束に従って秩序を維持するために働く警官と約束が破られた時抗議する者(プロテスター)は車の両輪であり、どちらか一つでは「国」は崩壊する。

 

note.com

 

 この両輪のうちの「抗議」という輪を国民が自ら手放してしまったため、代表者はもはや契約を守るべきであるという約束(法)を守らなくなってしまいました。

 

 声を上げましょう。

 可視化できるようにタグを使い、@で声が伝わるように、声を上げましょう。

 政党や議員に届くように、電話・FAX・メールなどあらゆる窓口から声を届けましょう。

 特にあなたが投票したか否かを問わず、居住地区選出の議員をどんどん活用していきましょう(それが与党議員であればなおさら)

 がんがん問い合わせをかけ、電話をし、FAXやメールを送り、「問題に適切に対処しなければ対立候補に入れます」と言ってもいいんです。

 

 自分自身の苦境を訴えるものだったとしても、同じ立場にある人がいる限りは、その声は公共的な意味合いを持ちます。

 だから、あなたの声を上げてください。

 私ももう、デモに立つことをためらいません。

 

 今年のはじめに読んだ、教皇フランシスコの著作『橋をつくるために 現代世界の諸問題をめぐる対話』にこのような言葉がありました。

 

「政治はたぶん、最大の愛徳行為の一つでしょう。

なぜなら、政治をするということは人々を担うことだからです。」

 

橋をつくるために

橋をつくるために

 

 

 この言葉がずっと私の中に残っています。

 そして「自ら進んで関わることは、最も人間的な要素です」とも。

 これは直接的には福音宣教に関する言葉だったのですが、政治にも同じことが言えるのではないかと思います。

 

 政治に関わることが善であると、そんな当たり前のことさえ、言える人がこの国にはいなかった。えらいらしい人も、お金を持ってるらしい人も、権力を持ってるらしい人はなおさら。

 

 しかし、自ら進んで声を上げることはだれかを担う行為だという言葉を目の当たりにして心底救われるような想いがしました。

 政治は無粋でも一目を憚って行うべき恥ずべき行いでもありません。

 誰かを救うための、少しでも社会をよくしていくための、公益に適う行動です。

 

 だから、臆さずにあなたの声を聴かせてくれませんか。

 ハッシュタグに乗せて、みんなでシェアしませんか。

 そう言いたいです。

 

 と、書いている一方で。

 正直なところ、私はこの冬、手詰まりに感じてもいます。

 

 杉田水脈(議員とはつけません)が性暴力の被害者に対し「女はいくらでも嘘をつく」という発言をしたことで沸き起こった「#杉田水脈議員の辞職を求めます」の抗議の声と署名13万6400人分、つまり民意を自民党は受け取り拒否しました。*10

 さらに、自民党は彼女を自民党女性局次長という重職につけた。

 

 そして杉田は12月15日、市民の7割の賛成があったにもかかわらず、「男女共同参画基本計画案から『夫婦別姓』の文言を削除させた」と自身のTwitterアカウントで語ったのです。*11

 これらが何を意味するか。

 自民党はまたしても民意を無視したわけです。

 これは杉田水脈だけではなく、むしろ自民党全体の決定として非難すべき問題です。

 

 声を上げても、その声がいくら大きくても、為政者がその声を無視したら。

 そんな状態で、どうやって民主主義を守ればいいんだろう。

 声が小さいんじゃない。為政者が声を聞かないのに問題があるんです。

 

 しかしながら、それは為政者を為政者の座につけておくための行動をとっている市民の責任でもあり――、結局そのツケを支払わされているに過ぎません。

 

 声が小さいんじゃない。そう思う一方で、沈黙を続ける当事者が声を上げなければ限界なのではないのかと思うことがあります。

 

 失業した、家をなくした、差別を受けた、不当に搾取されている。こんな給料じゃ暮らしていけない。こんな補償じゃ暮らしていけない。そんな苦境にある当事者が問題に向き合うことは難しいかもしれません。

 だから私のような、今まだ余力のある人間が上げればいい。そう思ってきました。

 でも限界があるんじゃないか、と今になって思います。

 

 今声を上げている人の声が小さいのではない。

 けれど、まだ声を上げている人が足りない。

 今声を上げている私たちは、まだ沈黙を続けている当事者達に、「声を上げよう」と声をかけることが重要なのではないのか、と思います。

 

 現実に苦境に追いやられているにもかかわらず、自分を搾取する為政者をすすんで支持してしまう「当事者」たち。 

 これ以上苦しまずに済むように、せめて現状維持がしたいと自民党に投票する「当事者」たち。

 もう何も変わらないと思って「選挙に行く」というアクションさえ取らない「当事者」たち。

  当事者が救われたいと思わなければ、救われることはない。

 

 草津町議会のリコール問題で考え続けていることがあります。

 今回のリコール問題で上がった反対の声に対して、「非正規雇用の女性が一番最初に首を切られるのだからボイコットは正しくない」という声が上がりました。

 

 それ自体は事実で、そのような社会構造について無視するべきではありません。

 しかし、このような不正なリコールを起こして圧力をかけた加害者側を責めること先立って行われず、抵抗の手段を非難することは、それは力のない女性を人質に加害に対する批判を封じるものになっているのではないのか。そのようにして黙らせたところで加害が温存され、弱者に対する脅威が残り続けるということではないのか。

 そんな風にして、日本は性加害をのさばらせてきたのではないのか。

 

 むしろ、抑圧されたその当事者が、リコールに投票しなかったり賛成を投じた結果ではないのか。あの圧勝は。

 自分自身がその選択の責任を取らされてしまうのにもかかわらず。

 

  自分の首を絞める選択肢を選んでしまう当事者になんの責任もないとは思えない。

 ましてや「責任を取るから好きにさせろ」と愚行権を根拠に主張する向きには、「責任を取らされるのはあなただけでは済まない。もっと弱い人達だ」と言いたい。

 

 日本全体に同じことが言えます。 

 今、この日本は、明確な抑圧状態にあります。

 抑圧の当事者として、自分の首を絞める選択肢を選ぶな。

 抑圧の当事者として、自分より弱い者の首を絞める選択肢を選ぶな。

 でもそんな単純な話が通じない。

 

 そんなことを考えながら、しかし今、この12月に入って、私は言葉を喪ったままでいます。

 今、言葉を喪って沈黙している私が、ここに書いたようなことを言う資格はあったのか。

 ないのかもしれない。 

 言葉を喪っていること自体に罪悪感があり、果てしなく自分を責めてしまう。

 この声が誰かに届けばと、この原稿に向き合うことしかできずにいる。

 せめてここに私の怒りと悲しみを可視化させておきたい。

 

 この数日間、うまく表現できなかった怒りと悲しみをこうして文章に織り上げることで、次の一歩を踏み出すことができたら。

 来年、私には何ができるのだろう。

 何でもいいから、前進につながる何かをできるようになっていたい。

 

 祝福モードでこの #ぽっぽアドベント に向き合えず申し訳ないですが、今はこの偽らざる感情を記しておきたいと思いました。

 

 結局のところやはり答えのない問いに突っ込んでいってしまいました。

 ここいらでいったんこのことについては答えが出ないまま、この問いがどこかの誰かのその心に触れることがあることだけを願って、ボトルメッセージのようにインターネットの大海に流しておきたいと思います。

 

二次創作で感情を整えた2020年

 

 そしてもうひとつのテーマ。「変わらなかったこと」。

 

 昨年の記事で「(お前の読みたい二次創作は)そこになければないですね」とpixivやら世界的二次創作サイトAO3やらにも言われてしまい、やむなくかつて挫折した小説に二次創作というかたちで向き直り始めたというお話をしましたね。

 

 来年にはもう書か(け)なくなっているかもしれないな、と思っていたのですが、ところがどっこい、書いているんだな~! まだ!

 そしてこの二次創作というアクティビティが、この残酷でやるせない2020年の拠りどころとなったのです。オタク特有の強い言葉を使っているにすぎないと思われるかもしれませんが、私は二次創作の形にして自分の感情を編み続けることでようやく生きていたんだと思います。置きどころを喪っていた感情を、ひとつひとつあるべき場所に戻す作業をしていたんです。 

 

 今書いているのは『神と共に』という韓国映画の二次創作です。

 2019年5月下旬に第一章が公開され、その1か月後の6月下旬に第二章が公開されました。韓国のウェブトゥーンが原作のアクションファンタジーです。ハ・ジョンウとチュ・ジフン、そしてキム・ヒャンギが冥界の使者を演じています。イ・ジョンジェとマ・ドンソクも出てます。

 

神と共に 第1章:罪と罰 (字幕版)

神と共に 第1章:罪と罰 (字幕版)

  • 発売日: 2019/11/06
  • メディア: Prime Video
 
神と共に 第2章:因と縁 (字幕版)

神と共に 第2章:因と縁 (字幕版)

  • 発売日: 2019/11/06
  • メディア: Prime Video
 

 

 最初こんなこと言ってるだけだったんですけどね……。

 

 もともとハ・ジョンウが好きで出演作をよく見ていたから、その流れで軽率に観に行っただけなんですが、その軽率さが命取りでした。

 

 第一章の時点では、個人的に引っかかるいくつかの点があった以外は普通に楽しく観ました。ハ・ジョンウとチュ・ジフンがモノトーンの揃いのロングコート着てるって、考えた人天才では? と思いました。ハ・ジョンウの黒コートはなぜかスケスケだし……スケスケなんですよ……。ハジョンウのコートの裾がヒラヒラのスケスケ……。なんでチュジフンじゃなくてハジョンウのほうの衣装をスケスケにしたんですか? 制作陣に無垢な子供の目で聞きたい。この御恩は忘れません……。은혜는 잊지 않겠습니다…….

 

 しかしその一か月後第二章を観て、「こんな地獄みたいな関係、このポンコツやおい探偵にゃ手に負えねえ」と思いました。

 実際、地獄みたいな関係なんですよ……。

 いくら地獄が舞台だからって関係までこんな地獄にする必要ある?

 第一章であんな感じだったのに、ひどくない?

(※あんな感じ……年上をクソ舐めた感じの年下が、年上のピンチの時には呼んだら秒で来る

 これじゃとてもスケベなやおいも書けねえ。やられた……。

 

 しばらく鬱々とするばかりだったのですが、何かどうしても自分の中に後を引くものがありました。それで、一冊だけ、後を引いているものを供養しようと書いていくうちに、地獄みたいな関係性ゆえにどんどん深みにはまっていって、地獄の釜から上がりたくても上がれなくなってしまったのです。

 

 いやー、とても無理だわと思ったんですけど、「この男と男を絶対にやおらせる、絶対にだ」という決意の前には何事もやってやれんことはないもんですな……)。

 このやおい探偵、心身に大穴の空いたエッチな非実在中年男性の大穴に手を突っ込んでぬか床のようにかき回すことになによりも興味があるので……。でも、本作に限って言うと、年下の男のほうにも大穴が空いていたので男の大穴が二倍あって、その分大変なやりがい(何の?)を感じました。

 

 実際、その地獄みたいな千年間の関係性はよくよく反芻していくうちに「地獄」から「甘美な地獄」になりました(地獄は地獄)。5月に第二章を観てから4、5か月くらい発酵させてしまいましたが、よく発酵させただけあって地獄の関係性はもはや味のなくならないスルメみたいなもんです。さすがは発酵食品の国だわ。

 

 そしてこの2020年。

 緊急事態宣言下の外出自粛中、同人誌即売会も中止になってしまったというのに、私はこの作品の二次創作をひたすら書き続けました。仕事と社会運動に精を出す合間に、ひたすら二次創作を書いていました。睡眠時間を削って書き続けました。

 

 どうしてここまで夢中になっていたのかは分かりません。

 

 しかしひとつ言えるなら、悔しかったのだと思います。

 なにもかもが。

 

 自分が安穏と「おこもりライフ」を送っている今この瞬間――防疫上の要請からそうせざるを得ないのに、そういう特権階級とでも言うような皮肉めいた呼び方をされているのは怒りと悲しみで心が引き裂かれました――その瞬間にも自民党の無策と邪悪で感染したり失業したり、社会的意義の高い仕事をしながらもいわれのない差別を受けたり、学ぶ機会や仕事をする機会を奪われている人がいる。受け取る権利のあるお金(給付金)を受け取れない人がいる。目指すべき道を永遠に閉ざされてしまった人がいる。自ら死を選んでしまう人がいる。家を喪う人がいる。

 家を喪って路上で殺されてしまった女性がいた。

 

 声を上げても届かず、邪悪で愚かで長期的視点がなく、家父長制イデオロギーを盲信する為政者が、非合理で有効性がないばかりか害悪で、お友達の利益以外意味もない政策で税金を蕩尽するのを、止められない。

 「それら」が仲間内で税金を回し、弱者を搾取するのを誰も止められない。

 止めようと、しない。

 「それら」がしがみつく家父長制によって、社会的立場が弱い女性から順々に殺されていく。

 女性が声を上げてもその声は聞き入れられない。

 

 「それら」と同じ価値観をもつある男が、「コロナが終息したら絶対面白いことあるんですよ。美人さんが風俗嬢やります。短時間でお金を稼がないと苦しいですから」と言った。

 「絶対に面白いこと」、そう言った。

 ナインティナイン岡村隆史といいます。

 

 実際に女性の雇用が真っ先に切られる社会で、女性の自殺率が82%増えた社会で*12、仕事をなくして性風俗の仕事をしなければならない女性が増えることを「絶対面白いこと」と言ったんです。

 この発言を「それくらいで」と思う人間がもしいるとすれば、それはだいぶ非人間的ななにかに近づいていると思いますよ。よくよく自省されたほうがいい。

 

 この発言が示唆するように、「それら」より先に私たちが困窮し、死ぬ。

 これは比喩ではありません。私はまだ殺されていないだけ。

 今年かろうじて影響を免れただけで、来年は私が飛ぶ番なんじゃないかと思っています。

 

 そんな荒れ狂う怒りや悲嘆を、

 自民党および家父長制への憎しみを、

 非力な自分に対するやるせなさや耐え難さを、

 書くことでようやく昇華していました。

  

 私自身はスーパーかコンビニ、ひとけのない墓場――近所の墓場は唯一、人に接触せずにマスクをはずして緑のにおいをかげる場所でした――にしか行けないのに、ブエノスアイレスとソウルを舞台にした二次創作を書きました。自由に街中を歩けない代わりに、キャラクター達を自由に歩かせ、濃厚接触させました。私が日夜「くたばれ」と呪っている家父長制からどうにかして自由になろうとあがく人たちを書きました。

 生前(この人たち死んでるんで……)どうにもならなかった関係を、二次創作でどうにか(私にとって)あるべき関係に結実させたいと考えている時間だけは、自由でした。

 

 あるべき関係。

 理想の関係は、焦がれて目指したとしても、手に入るものではありません。

 よしんばそれを手に入れられたとしても、腐らせないように維持していくだけでも両者の不断の努力を必要とします。片方だけが腐心して維持される関係はすでに腐っている。

 そんなものは、とても現実で叶うことではないと、私はある時にそう思いました。

 だから二次創作でそれを目指すのかもしれません。

 

 人の創作物を借りることでしか理想を追求できないのはひどく愚かで、滑稽でしかないかもしれませんが――借り物だからこそ、理想の関係の構築にフォーカスできるのかもしれません。

 

 書いているものはただのスケベ小説ですが。

 それでも、それを書くことができるということ自体が、昨年以上に私を救いました。

 

 話が大仰になってきたのでやめます。

 どうしても、この2020年のオタ活をただ気持ちよくは総括できませんでした。

 

 昨年みたいに、知らないみんなに祝福を送りたかった。

 来年もハッピーな一年にしようね、笑ってそう言いたかった。

 今年私が言えるのはこれだけです。

 「あなたは無事でいて、死なないで。」そんな、祈りだけ。

 私が知ってるそこのあなた。

 そして、私が知らないそこのあなたです。

  

私を救ってくれた変化と不変

 

 そのほか、今年特筆しておきたい、私を救ってくれたものたちのこと。

 

花組はいからさんが通る』に萌え転がったこと。

f:id:shuntaro-chan:20201220003218p:plain

時は大正ロマネスク……………。花組公演『はいからさんが通る

 長い休止期間を経て再開された宝塚歌劇はその長いブランクを感じさせない、変わらない夢の世界であってくれました。

 いえ、本当は変わっています。オーケストラピットの中はからっぽで、おなじみの「指揮・佐々田愛一郎でお送りします」などのアナウンスもない。舞台上に上がる下級生の人数も大幅に減り、新人公演もなくなった。下級生の機会損失を考えると胸が痛みます。とはいえ、舞台上はその寂しさを感じさせない再構成でした。この状況もあり、いつになくチケットが大量にご用意された私はせめて客席に穴を開けないようにと東京宝塚劇場で始まった花組公演『はいからさんが通る』にせっせと通いつめたのでした。

 

 私が贔屓とする(というのもおこがましいですが)音くり寿さんは、本作でエトワール(フィナーレで大階段を最初に歌いながら降りてくる娘役の大役)を見事な歌声と輝きで務めました。それは本当に、夢の世界のフェアリーのような美しさと愛くるしさでした。

 

 花組トップスター・柚香光さんは、ようやく再開したトップスターお披露目公演・宝塚大劇場千秋楽カーテンコールでアイカラー色の涙を次から次へと流し、私たちに「ありがとう」と言ってくれました。ライブ配信で見たその涙の結晶は今でも私の胸の中に凝ったままです。

 

 宝塚は、そこに携わる人たちの長い長い不断の努力と犠牲と献身によって支えられている堅牢な「夢」の世界です。剝き出しの残忍な現実の中にあって「夢」を描き続けるのは、生半可な努力ではないでしょう。

 この美しく楽しく完璧な夢の世界を、彼女たちがどんな想いで紡ぎあげているのか、それはその夢の世界をかいま見るだけの私には計り知れません。

 

2019年から学び始めた韓国語が、少しずつ面白くなり始めたこと。

 仕事に関係があり、職場で有料講座の募集があったので始めたのがきっかけですが、二次創作で書いてもいる韓国社会を理解するのに一役買い、面白くなり始めました。あまりに頭がポンコツすぎて、砂のようにサラサラ記憶から消えていくのですが。Twitterにいないときはまるで小学生みたいに韓国語の書き取りをしてます。

 

 ドラマ視聴は続かない私なのですが、ポッドキャスト番組「ニュースde韓国語」は過去回を遡って聴き、何より更新を楽しみにしているコンテンツです。まだ韓国語リスニングは追いつきませんが、韓国の政治文化、韓国人の政治や社会、フェミニズムに対する、社会を公正であらしめんとする厳しい気風が感じられてとても勉強になります。パーソナリティのよっしーさんとジュジュさんが無報酬でやってるのは信じられない。なんとかお金払わせてくれないかな……。

open.spotify.com

 

とある映画監督の欲望と偏愛に対する懊悩

f:id:shuntaro-chan:20201220004605j:plain

ジョンウ先輩を愛しすぎてどうしても閉所にしまっちゃいたいキム・ビョンウ監督

 私が前述のハ・ジョンウという俳優をそれとなく追いかけることになったきっかけの映画のひとつがキム・ビョンウ監督の商業映画デビュー作『テロ,ライブ』だったのですが。5年ぶりくらいにこの監督が撮った新作『PMC ザ・バンカー』が本邦でもようやく公開されまして。5年ぶりの商業映画2作目で、2本ともこのハジョンウが主演を務めているんですよ。久々の新作、久々の再タッグ、感染状況がシビアになり始めた2月末ではありましたが、どうしても見ておきたくて公開初日に観に行きました。観た結果、古式ゆかしい週刊少年マガジンのモブみたいに虚空に「」がいっぱい浮かんだ。観終わったあと、あまりにもよくわからなくて即2回目を観たんですが、やっぱりわからなかった。今観たものがとんでもねえフェチ映像であることと、監督がハ・ジョンウという俳優に対して何か抜き差しならない欲望を抱いていることが前回以上にビンビン伝わってきた……。1作目の『テロ,ライブ』はハ・ジョンウがほぼ一人芝居でほとんどのシーンを持たせる演技で、彼にフォーカスするあまりやっぱりどこかフェティッシュな撮り方がなされている一方、社会悪に対する怒りがそれ以上に鋭敏で映画そのものは優れた社会批判に仕上がっていたので、フェチ映像ぶりだけが前面に出た感じはなかったのですが……『PMC』はもう純度100%のフェティッシュ映像だった……。なにこれ? ハジョンウがセクシーな喘ぎ声を上げながら銃弾を摘出するシーン、こんなに長く撮る必要あった? 奥さんが臨月って設定なのに、なんでハジョンウ演じる主人公が頻尿になるのか? なんなのそれは? メタファーか? これはあれか? リドリー・スコット監督がマイケル・ファスベンダーへの偏愛を全開にして撮った伝説のカルト映画『エイリアン:コヴェナント』か⁉ 私がかつて『コヴェナント』を観た時の一発目の感想が「リドスコおじいちゃん、ファスベンダーから産まれたいのかな?」だったのですが、それと同じ感想を本作にも抱きました。「なに? ビョンウ、ジョンウ先輩から産まれたいの?」 いや、リドスコおじいちゃんはこれまで数多くの優れた商業映画を撮ってきた結果と思うとまだ「わかる」んですが(何が?)、キム・ビョンウ監督は商業監督作品1作目で名優ハジョンウが彼の「娘にも等しい(と監督本人が言っていた)」脚本の主人公を生々しい存在感で受肉させてしまった結果、もう完全に骨抜きにされてるとしか思えないんですよね……。映画撮る目的が「俺の脚本を撮る」から完全に「俺のジョンウ先輩を撮る」に乗っ取られてしまっている。その結果ものすごい切迫感でもってハジョンウへの欲望だけがビンッビン伝わってくる。映画としては「う、う~ん」と思ったんですが(でもラストシーンは最高! さすがは俺たちのビョンウ! 推しのために世界を滅ぼすことにかけては天才だぜ!!)ミューズにとち狂った監督と男ミューズ映画案件としては5億点くらいつけたい。この映画を即日2回観た直後私は体調を崩し、「すわ感染したか」とおびえたんですが、翌日ピンピンしていたのでただキム・ビョンウ監督のマッシブな欲望にあてられただけだったわ。他人の欲望、面白いけど消耗する。でもマジで面白いので(映画自体というかその現象が)、欲望にあてられる覚悟でこの映画を観てほしいです。できれば『テロ,ライブ』→『PMC ザ・バンカー』の順番で観てください。私の言ってることがわかると思います(そんなこと一生わからなくても何も困りませんが……)。ついでにキム・ビョンウ監督、スコットフリーに研修に行ってほしい。リドスコおじいちゃんのところで商業娯楽映画の極意を学んでもっとすごい映画監督になってほしいけど、よしんば推しに対する欲望の強さだけが先鋭化して帰ってきてもたぶんかなり面白いので……。その結果ビョンウもリドスコおじいちゃんみたいに推しを増やし始めるかもしれないと思うとワクワクする。いやこんな異国の地でキム・ビョンウの欲望とその映画監督としてのキャリアについて考え続けてるって何? 私、ジョンウ先輩じゃなくてむしろビョンウペンなのか? ビョンウ~、ジョンウ先輩から乳離れするためにお前(の分身の年下)とジョンウ先輩の『不汗党』(邦題『名もなき野良犬の輪舞』)を撮ってくれ。お前の中の神を殺して監督として一皮剥けてほしい。そのために後生ですからあと一作だけ付き合ってあげてください、ジョンウ先輩!!!!(実際に三部作の構想だったらしいですが果たして……) やだ何この文章! ここまで改行がない! 怖い!!!!! 

テロ, ライブ [DVD]

テロ, ライブ [DVD]

  • 発売日: 2015/02/04
  • メディア: DVD
 
PMC:ザ・バンカー (字幕版)

PMC:ザ・バンカー (字幕版)

  • 発売日: 2020/07/03
  • メディア: Prime Video
 
名もなき野良犬の輪舞(字幕版)

名もなき野良犬の輪舞(字幕版)

  • 発売日: 2018/10/03
  • メディア: Prime Video
 

 

 以上です。

 あれ? 以上か?(いやもういいかげん終わっとけという話なんですけど) 

 今年はなんだか例年の5倍くらいいろんなことがあった気がして……

 

 あ、『オールド・ガード』のブッカーさん(マティアス・スーナールツ)の夢男子になったりしていた。今もブッカーさんの夢男子だから忘れてたわ。でもブッカーさんはある日ふらりと俺のアパルトマンから出て行って、そのまま消えてしまったから……(セーヌ川のほとりの白い小さなアパルトマンに住まうブッカーさんの夢元カレ)。

f:id:shuntaro-chan:20201220005308j:plain

ブッカーさん。

 ブッカーさん、ベルギーのハジョンウとか言われていて笑った。俺の好み、一貫しすぎである。いっそもう心身に大穴の空いたオールバックのエッチな非実在中年男性以外の何かを好きになりたい。

『オールド・ガード』はLGBTQレプレゼンテーションの意味においても女性表象の意味においても大変エポックな映画でした。Netflixで観られます。

www.youtube.com

https://www.netflix.com/jp/title/81038963

 

 以上じゃねえじゃん。

 本当に以上にします。すみませんでした。

 昨年以上にまとまりのない、生々しい、洗練されていない文章になってしまいました。

 年の瀬となってもなにひとつ総括できないこの混乱を、今回はそのまま出すことしかできませんでした。ここまでお付き合いくださった方がいたとしたら、本当にありがとうございます。

 

 

 繰り返しになりますが、

 私が知っているそこのあなたも、

 私が知らないそこのあなたも、

 来年もどうか安全で、健やかに過ごしてください。

 「それら」に殺されずに、生きていこう。

 生きて「それら」を、家父長制をくたばらせよう。

 私は無力ですが、また動き出したらどうか一緒に戦ってください。

 

 明日23日はurokogumoさん、タイ&チョfromウさん、ななしさんです。

 

 それではみなさんご安全に、どうかお元気で。

 

 May The (Girl’s) Force Be With You.

 

とあるやおい映画に性欲がバグった限界バツイチやおい女によるA Long Long Confession, または二次創作という名のShipper’s Delight(2019年12月24日の記事アーカイブ))

f:id:shuntaro-chan:20201212022958p:plain

 このお話は一本の変てこな映画の話です。
 そして一人のどん底シッパーが欲望と人生を取り戻すにいたった、身に余るShipper’s Delightのお話です。

 改めましてハッピーホリディ!
 はと @810ibara さん主催 #ぽっぽアドベント 24日目、クリスマスイヴを担当します、シュン太郎ちゃん @nakanishico またの名をやおい探偵と申します。

 本企画のテーマは「私が動かされたもの」ということで。

 この2019年のわたしにとってはあまりにも身に覚えがありすぎるテーマだったので即日立候補し、ほんとうにずうずうしくも24日にヌルッと入りこんでしまいました。
 身に覚えがありすぎるのですが、わたしにはみなさんのようになにがしかの「推し」があるわけではなく、この話は徹頭徹尾やおい、つまり男と男の間に生じうる関係性と巨大感情についてのものになりますのでご承知おきください。
 クリスマスイヴにおまえのドス黒い性欲についての話を聞かされる人たちの気持ちを考えなさいよ、とは思いますが、ご寛恕いただければ幸いです。
 
 とりあえずタイトルにあるように、この話はマイル22』とかいうやおい映画で性欲がバグった挙句、二次創作を書き散らかして2019年をまるまる溶かした限界バツイチやおいの話です。
 Twitter上でわたしのことをミュートしていないごくごく少数のフォロワーさんには既知の事実かと思いますが、わたしの2019年はこの映画で文字通り溶けました。

 この映画はどんな映画かというと、いわゆる護送ものというジャンルにあたるミリタリーアクションです。みんな大好き『バトルシップ』のピーター・バーグ監督、マーク・ウォルバーグ、イコ・ウワイス主演、Wバーグ作品としては4本目にあたりますかね。すごく仲良しですね。まあ、それはここではどうでもいいです。
 あらすじはこうです。

 世界を揺るがす危険な“物質”が盗まれた。行方を知る唯一の“重要参考人”を亡命させるため、周りを敵に囲まれる極限状態のなか、米大使館から空港までの22マイル(35.4Km)を“最強の特殊部隊”ד完璧な頭脳チーム”からなるアメリカ最高機密「オーバーウォッチ」作戦を発動し護送ミッションを遂行していく。しかし、行く手には想像を絶するラストが待っていた――。(公式サイトより引用)

 思い起こせば今年の1月末、わたしは出張だなんだと13連勤し、その最後の休日出勤のあと疲労のあまり「あーあ、人がクッソ死ぬ映画観てえなあ」という気持ちになっていたので自宅近くの映画館のレイトショーでこの映画を観て帰ることにしました。人がクソ死にそうということと、もともと大好きなアクション俳優だったイコ・ウワイスくんが出ているということと、94分と短いという理由だけで、なんの予備知識もなく、予告も観ずに行きました。わたしは長くない映画と人がたくさん死ぬ映画が好きです。ついでに言うとファンの方には申し訳ないですがマーク・ウォルバーグのことは割と苦手だったんですけれども、人がたくさん死にそうな映画の誘惑には勝てませんでした。それくらい疲労困憊していたのです。

 さて、94分後のわたしはものすごい早歩きで帰路についておりました。さっきまで見せられていたものの正体がよくわからなかったからです。古式ゆかしき週刊少年マガジンのモブなので、頭上に「?」が浮かんでいたと思います。たしかに人はたくさん死んだけどよぉ。なんか思てたんと違う。違う…………………………………………………………

 わたしはいったい何を見せられたんだ?

 ただ、何かものすごくスケ……セクシーな男と男の関係性の縺れを見せられたような気がしていました。
 家に帰っておふとんに入ってからも、その淫靡でお耽美なムードにわたしは目が冴えて眠れませんでした。
 翌日は久しぶりの休日でしたが、速攻で2度目を観に行きました。
 2回目を観終わったあとも、やっぱり何を見せられたのかよくわかりませんでした。ただ、きのうときょう観たものが男と男のただならぬYAOIやおい)であることだけを確信していました。なんだこれは。とんだオム・ファタルに狂わされる男の超巨大感情案件じゃねえか。イコ・ウワイスくんさん様、とんでもねえオム・ファタルじゃねえか。マーク・ウォルバーグ、とんだ心身に大穴が開いた軍人じゃねえか。
 そしておもむろに以下のツイートを行います。

 いまだかつてこんなに情報量にとぼしい感想ツイートがあったでしょうか。でもセッ……男と男の魂の交わりだと思ったんです。本作は15歳以上からご覧いただける健全エンタテインメントです。ついでに言うと女性描写が驚くほどフラットですし、地味にベクデル・テストもクリアしています。ただちょっと人がめちゃくちゃ死ぬし、登場人物のほぼ全員が神経が一本きれたアドレナリン・ジャンキーで山ほどFuckとかShitとか言っているだけで……。

 そしてわたしは男と男の間にスパークする巨大感情を目撃するために毎晩映画館に通いました。まあ、男と男っていうか、おもにマーク・ウォルバーグとイコ・ウワイスですけど……。いやわたしはいまだにピーターバーグを取っ捕まえて問いただしたいんですけど、なんでこの二人でこんな破滅的にロマンチックなやおいやろうと思った? ピーターバーグやおいの古強者か? つよい。わたしもやおい者やってそこそこの年月が経ちますけれども、正直想像の埒外から急に降ってわいたやおいでした。誰得のやおいなんだこれは。ピーターバーグか? ピーターバーグお前…! お前の愛しの男ミューズ(マーク・ウォルバーグのことです)をこんな……こんな………こんなエッ……大変な目に遭わせたいと思っていたのか????? わたしの心は千々に乱れました(ここまで改行なし)

 誰得とか言いながらわたしは毎晩仕事終わりに映画館に出勤し、あれよあれよと落っこちていきます。
 気が狂うほどやおいだと思った。
 見るたびに「恋じゃん……」以外の語彙力を喪っていきました。いやめっちゃ恋じゃん。イエーイめっちゃ恋じゃん。ヒエエ、めっちゃ恋じゃん。マジか~こりゃ~超~~~~恋じゃん。
 暴力的で破滅的で獰猛で、でもひどくロマンチックな男と男の恋と憎しみの顛末だと思いました。

 回数を重ねるうちに脚本家はリー・カーペンターという女性であることがわかりました。
 なるほど。このものすごいやおいを生み出したのはピーターバーグの性欲じゃなかった。ちょっとホッとした。なにをとち狂ったのかは知らないが、この女性脚本家が主演二人への当て書きでやおいをやろうと思ったのだな、と。そうです、この映画はマーク・ウォルバーグと、イコ・ウワイスへの、当て書きです(大事なことなので二回言いました)。

 リー・カーペンター氏は文系女子の最高峰みたいな経歴の持ち主です。プリンストン大学英文学科卒業後、ハーバードビジネススクールMBAを取得、『11日間』で作家デビューする前はF・フォード・コッポラ監修の「ゾエトロープ」という文芸雑誌のエディターを務めていたそうで、奇しくも私は学生時代この「ゾエトロープ」誌が大好きでした。この雑誌はすごくおしゃれで掲載小説は都会的で洗練されていて、私もいつかこんな文芸雑誌を編集したい、と憧れました。ついでに言うと、「ゾエトロープ」誌にはこんな強火のミリタリーやおいみたいな話はひとつも載っていなかったと思います。邦訳されたものしか読んでないので知りませんが……。

 そう、そんな文系女子の最高峰みたいな経歴の脚本家が書いた脚本が、仮にもハリウッド商業映画で中国資本引っ張ってきて作ったオリジナル映画の脚本が、BLの10年選手が書いたみたいな淫靡でお耽美な情緒漂うつよつよの殺し愛やおいだったことにわたしはおおいに驚きあきれたのです。マジでどうかしているし、つよい。わたしも人の金で推しカプの好きシチュやおい撮りたい!!!!!!
 取り乱しました。大変失礼しました。

 ここまでさもエビデンスがある情報かのように語りましたけど、リー・カーペンター氏本人にやおいのつもりがあったかなかったかどうかはわかりません。全然やおいのつもりがなかったら申し訳ありません。
 でも、やおいのつもりない女が男に「男二人の間にも戦場の霧は存在する」なんてモノローグ語らせます!? これはやおいにとち狂った女(わたしだ)の寝言じゃないんですよ。本当に言ってるんです、マーク・ウォルバーグ演じるCIA特殊部隊の男が作中で。クラウセヴィッツの軍事用語をそんな……なんかムーディーな使い方してるの初めて見た。いやいやいやいや、それは確実に恋してるでしょ。絶対に恋してるでしょマジで。これが恋じゃないならいったい何が恋だっていうんだ。
 あまりに誰もやおいだって信じてくれないから逆ギレしちゃった。すみません。

 話は変わりますが、わたしが事程左様にこの映画に事故ったのにはあともうひとつ、この映画の男の肉体の撮り方が異様に艶めかしかったこともあると思います。
 被写体としての男の肉体に色気があって目を剝いたし、見るたび「センシティブな内容を含む可能性のある動画だ……」と思ってしまうマジで。女性はセクシーではあれどわりとヘルシーに撮られてるのに対して男の肉体はものすごくフェティッシュに撮られていたんですよ……。

 殺した男の血と汗に塗れるパンイチのイコ・ウワイスくんさん様。
 右手首にはめたラバーバンドで手首の内側の柔らかいところを弾くマーク・ウォルバーグ。
 見て歴然とその肉体美と舞踊のようなアクションの華麗さがわかるのはイコ・ウワイスくんですが、マーク・ウォルバーグも本当にびっくりするほど魅力的に撮られていました。体脂肪6%まで絞って、ご本人的には脱ぎたかったかもしれませんが(いや知らんけど)、あえて脱がさなかったピーターバーグマジでえらい。
 ハイパーアクティブの軍人で、露出した腕をラバーバンドでアンガーマネジメントでぱちぱち弾いているという設定なので、キャラクタ的に腕しか出していないことに意味があるというか、剥き出しのそこに意味が凝っていて、それがものすごく嗜虐的でフェティッシュでよかったです。一方で素肌が清潔感のある撮られ方をしていたのもすごくいい。
 彼の肉体表現・肉体描写に色気がありすぎて、苦手にしていた分反動で致命的にブッ刺さってしまい、中学生男子みたいな欲望に懊悩した1年弱でした。この話をしていると平気で10時間くらい経ってしまうのでここいらで打ち止めにします。

 しかしここまでいたずらに文字数を重ねましたが、特になにもわからないですね……。
 そんな説明じゃいっこもわかんねえよ、という方のために、私のこの9か月のツイートまとめも置いておきますね。

 ゴミみたいなまとめでしたね。大変失礼いたしました。
 もうこの映画はね、こんな駄文を読んでいる暇があったら実際に体験してみるしかないんですよ。みなさんにも「ハァ?」ってなってほしい。あわよくば「ハァ? なんだこのやおい。もう一回観よう」ってなってほしい。すでに一回観た人にも「そんな感じだっけ? 確認のためにもう一回観よう」ってなってほしい!!!!!!!!!!!
 また取り乱しました。

 そもそも、私にこの映画を語る力はありません。
 私の持てるあらゆるレトリックを駆使してこの映画について書き散らかして1年弱経過してしまい、もはやかえってどういう言葉で総括していいかわからないんです。あらゆるところから私の自我と欲望のメスを入れ過ぎて、ずたずたに切り拓いて腑分けして解体してしまい、もはやこの映画がなんであるのかわからなくなってしまった、というのが今の私の偽らざる心境です。
 たぶんひと様と私のこの映画の受容の仕方、ものすごく違っていると思います。たぶん多くの方に「エ~ッ、そんな大層な映画じゃないよ笑」とか思われていることかと思います。
 でも私には「そんな映画」だったんです。なぜか。
 なんで私にだけ「そんな映画」だったのかはいまだによくわかりませんし、自分でも納得できていません。あえていうならタイミングとしか言えない。

 実際本当にそんな大層な映画ではないです。言ってみればありふれたミリタリーアクションだし、盛大にコケてるし。批評家からも酷評されているし。
 いろいろと乱暴なところもあるし、エッと思うほど粗いところもあるし、情報の濃度が尋常の映画の8倍くらいあるし(その割に語られない部分のムラもすごい)。あとトーン&マナーがメチャクチャっていうか、「作画:広江礼威」みたいな感じなのにかんじんの内容は90年代のCLAMPだし……ターゲット想定と作画と作風がメチャクチャじゃねえか。本当に『東京BABYLON』か『X』かっていう話なんですよこれ……。脚本家氏、CLAMP通ってきてない?
 話がまた逸れました。戻します。

 わたしが語りえないこの映画をあえてなるべく簡潔に総括するなら、成功したかどうかはいったん置いておいて、同質で異質な魂の双子との一瞬のまじわりのお話をやりたかったんじゃないかなと思います(ここからネタバレではありませんがやや解釈に踏み込みます)。

 戦場のメリークリスマスという大島渚監督の映画がありまして。これはローレンス・ヴァン・デル・ポスト『影の獄にて』の映画化作品で、わたしはこの映画と原作がすごく好きなのですが。
 この作品で捕虜と収容所将校の関係を超えた魂の交錯を見せるセリアズ(演:デヴィッド・ボウイ)とヨノイ(演:坂本龍一)の関係と非常に近いものとわたしは理解しています。心身に開いた大穴(弱み)を抱えたまま生きてきた軍人が同質でありながら異質な他者にその虚無の大穴を暴力的な”不在性”で満たされてしまう、一生に一度のスパークジョイの話。
脚本家がやろうとしたことはそれなんじゃないかという結論をとりあえず持っている。
そんなんエモいに決まってるじゃないですか……。

「他者との出会い」を異人種間でやるのはもう古いんじゃないかという考え方もあるかもしれませんけど、エスピオナージュの文脈で、硬直したアイデンティティを打ち砕く口づけをセリアズから贈られるヨノイみたいな男がCIAの男だと思ったらもうめちゃくちゃ興奮してしまう。リー・ノア(演:イコ・ウワイス)の信教だけ教えてほしかった。インドネシア(作中は架空の国名です)の宗教人口比からムスリムと思いますが、そうだとするとイラク・アフガンへの派兵経験があるCIA特殊部隊の男とムスリムの男の戦メリなんですよ。いや~、ときめくでしょそれは。あとわたしは男の象徴の死と生まれ直しの話に弱い。
 だいぶ先走りました。もうやめます。
 そんなわけでわたしは身も世もなくときめきました。

 それで実はここからが本題なのですが(本題に入るまでが長い!)、身も世もなくときめいた結果、これまで長く忘れていたような衝動が疼きました。
 薄い本――ひらたくいうと二次創作への欲求です。
 さてその話をする前に、ここから少しだけわたしの話になります。尾篭どころかずいぶんとパーソナルでかつ生々しい話になってしまい恐縮ですが――わたしはずっと、誰にもせずにきたこの話を誰かに聞いてほしかったのかもしれません。

 わたしはやおい探偵とか名乗ってますが、二次創作への欲求自体は長い時間積み重なったさまざまな理由により、すっかり弱くなっていました。
 結婚して、2018年の前半に離婚したというのも大きいと思います。
 性愛に嫌気がさすあまり、やおいにさえ食傷していた時期があります。

 この映画を観るまでの一年は、その性愛への忌避がピークにきていました。
 セックスと生殖と、生殖だけでは済まない子育ての問題に苦痛を感じていました。
 毎度おなじみわが美しきこの国は少子化断固推進男尊女卑国家ですし。
 女性が子供を産むには残念ながら時間は有限ですし、元夫は子供を欲しがっていました。実家からも暗然としたプレッシャーがありました。わたし自身、子供を育てたいと思ってはいた。長女だし、妹はあてにできない。わたしがもういい加減しっかりしなければと思っていた。心とキャリアの準備ができているとはとても言えませんでしたが、踏み切らざるを得なかった。

 毎月の排卵サイクルをチェックして、子を保育園に0歳時点で預けるためには4~6月に生んでおく必要がある、それならばいつ種を仕込めばいいのかとか考えて。長い不妊治療の果てに高齢出産をした親族の出産が文字通り母子共に命がけだったことも、わたしの焦燥をあおりました(念のため言い添えておくとその後母子は回復し、子はすくすく成長しています)

 わたしは当時フリーランスだったので、子供を産むことのキャリア上の不安がとても大きかった。それをなんとか飲み下して、前向きに子供を産むことを決断した時期もあったのですが、子供が欲しいとずっと言っていた当の元夫には、急に機嫌が悪くなりそれが数週間続く謎の不機嫌サイクルがありました。 

 排卵日が来たら来たでその不機嫌サイクルが毎月回ってきて子作りどころではなくなってしまうのを繰り返して。生理かよ。そしてわたしの排卵日が遠ざかると嘘のように元夫の不機嫌とモラハラは去り、それをケロリと忘れたように「子供が欲しい」という話が繰り返される。
 この件に関して、わたしだけが被害者と思っているわけでは全然ないです。わたしにも原因はあったと思います。とはいえそれでも自分にモラハラを甘んじて耐えなければならないほどの責任はなかったと思いますが。

 愛情には双方による日々の不断のメンテナンスが必要ですが、片方だけがメンテナンス作業を行うだけではどうしてもうまくいかないです。
あるきっかけによって、わたしがメンテナンスの努力を完全に放り出した瞬間、急速にわたしたちのムードは離婚の方向に傾きました。その後もまあ離婚に決着するまでは一波乱あるわけなのですが――とにかく自分をとりまく性愛の不毛に疲れました。ここに、わたしのキャリア上の不本意な展開が重なって、わたしにはもう人生の展望が見えなかった。

 慰謝料(便宜上そう呼びます)の交渉と離婚の手続き、キャリアの問題をなんとか片づけ、今暮らしているちいさな部屋にうつってきた時には、わたしはなんとか新しい職場で仕事をして、もう夫に作ってきたような一汁三菜のおかずは作らず、ときどき宝塚を観にいってスターさんの美しさに咽び泣き、そうでなければただ長い惰眠を貪るだけの暮らしをしていました。実家や親類はわたしの性格や辛抱の足らなさを責め、元夫の側についたので(これが一番堪えました)、わたしの自由意志によって半絶縁状態を今なお続けており、わたしは孤独だったと思います。それでも孤独のほうがよっぽどよかった。

 さて、話はようやく本題に戻ってきます。
 それは前述の通り今年の1月末のことでした。そんな状況から徐々に元気を取り戻しつつありましたが、まだ過敏だったわたしのギザギザハートを、この映画が出会い頭の事故のようになぎ倒していってしまいました。
「もう性愛なんてうんざりだ」という、丸腰の赤子みたいにデリケートなわたしにこの映画に漂う謎の淫靡なムードは刺激が強すぎました。

 そんなわけで脳味噌の冷静な部分を焼き払われてしまったわたしにいつしか忘れ果てていた欲望がむくむくと湧き起こります。
 薄い本を100冊くらい読みたい。どうしても読みたい。
 この男(※言うまでもないことですが本記事ではこの表現は主演俳優そのものではなく映画の作中人物のことを指します)がス……大変な目に遭わされる薄い本をひたすら読みたい。
 この気持ちはなんだ…………。
 ひょっとして……性欲?
 久々に欲望が自分の手に戻ってきたのを自覚した瞬間でした。

 性欲というと誤解されるかもしれませんが、ここでは男と男の関係性にのみ強くフォーカスした欲望を指します。わたし自身はいまだに誰にもわたしに手を触れてほしくない。
 そんなわけで欲望を自覚したわたしはがぜん目の色をかえてインターネットの大海に乗り出します。
 しかし大海に乗り出したわたしの前に、「二次創作がない」という困難が立ちふさがりました。本当にない。AO3(世界的二次創作サイトです)まで探しに行きましたが、なんか解釈違いっぽいもの1本しかなくて、わたしは飢えに飢えて床に大の字になりました。
 こうなったら自分で二次創作を書くしかない。逡巡の果てにわたしはこの結論にいたりました。

 しかし、実はわたしには小説を書くことにひどい苦手意識がありました。
 わたしはその昔、二次創作小説だけではなくて創作小説をやっていたこともあります。
 創作にいたっては、新人賞にも出しました。しかし、あるところで「自分には書きたいことが特にない」ということに気づいてしまい、挫折しました。それから十数年、小説を書くことに対して不能感が長くあった。
 二次創作ですら、わたしにはもう書けない、書いちゃいけないと思っていました。それでも、久しぶりに戻って来たこの欲望をどうにかして自分の手でなんとか結晶化させたい。
 気づけばあれほど恐れて苦手意識があったアウトプットをしたくなりました。

 これまでは人の書いたものを読むので十分だと思っていました。
 しかしまあよくよく考えてみたら、ひと様の欲望はひと様の欲望であって、わたしの欲望ではないわけです。
 わたしの欲望はわたしが形にするしかない。そんな当たり前のことに、十数年経ってようやく気付きました。その欲望がひと様の創作物の借り物でしかなかったとしても、結局のところどこかで見たような誰かの欲望の模倣でしかなかったとしても、それでも自分自身の手で形を与えて、自分のものとして引き受けたいと思いました。
 誰のためでもなく自分自身の願いのために。
 ついでに誰かに読んでもらえて、あわよくば萌えてもらえると嬉しいな。

 それからわたしは二次創作を書き始めました。書いてみると、拙い内容であるにもかかわらず、温かい励ましの言葉があったりして、気づいたらひっそり同人誌まで出してしまいました。

 自分のファジーな欲望をアウトプットして文章に縫い留めるのは、苦しさや恥ずかしさがあります。
 ひと様の創作を借りて行うグレーな行いですし……。
 それにわたしが書くものは大層なものじゃないどころか、薄汚いばかりの欲望ですから、自己嫌悪や罪悪感に陥ることもしょっちゅうです。何より自分の書くものは拙いばかりで、思い通りの表現なんてできやしません。思うように書けなくて、書きたいものが書けなくて、やっぱり味わうのは挫折ばかりでした。どうしてわたしはこんなに書けないんだろう? と落ち込む毎日でした。

 それでも、自分が生きてきた中で積み上げてきた苦しみであれ快楽であれ知識であれ、思考/嗜好/志向であれ性癖であれオブセッションであれ、「かくあれかし」という祈りのようなものであれ、そういう積み重なった感情を白い布に刺繍していくようなこの作業は、まぎれもなく最上の歓び――Shipper’s Delightとでも呼ぶべきものでした。
※ちなみにこの「Shipper’s Delight」というのはシュガーヒル・ギャングの「Rapper’s Delight」という曲のタイトルをもじった造語です。しょっちゅう言っていきたいが特につかう局面がない。

 そんなことをしているうちに、記憶の瘡蓋をわざわざ剥がして血を出すような真似をしなくて済むようになっていました。たまにはそういう夜もありますが。

 これが欲望と人生を取り戻した限界バツイチやおい女の2019年のはじまりとおわりです。

 結婚していたときはとにかく社会をやることとくらしを営むことに腐心していましたが、今年はそんなものは全部放り捨てて自分の欲望を掴みに走った。
 とにかく、とにかく自由だと思いました。たくさんのお芝居やオペラも観て、鈍麻していた感情を全開にして、フィクションで他人の人生やエモーションを全身で受け止めました。宝塚のご贔屓の退団も経験した……。

 自分の野放図な欲望を否定したい気持ちや疎ましく思う気持ち、恥ずかしい気持ちがないわけではありませんでしたが、消え失せていた欲望を自分の手に取り戻したとき、自分を生きていると心から思えました。

 こんなご時世です。来年はどうなっているかわからない。
 よしんば来年社会がどうにもなってなくても、もうわたしが文章を書くことはなくなっているかもしれません。飽き性ですし、そもそも一次であれ二次創作であれ、わたしに才能はありません。

 なにより、いつまで自分の中に書きたいテーマが残っていてくれるのだろう。あっという間に枯渇して、また空っぽになってしまうんじゃないだろうか。

 そしてこの自由は果たしてどれだけ続くでしょうか。
 もしかしたら、案外すぐに取り戻した自由を放り出してしまわないといけないのかもしれません。
 いつかこの自由のツケを支払わされて、ひどく惨めな思いをしているかもしれませんね。
 しかし、よしんばそうなったとしても、今年のわたしが享受したものを責めたくはないと思います。

 今年、自分が自分の欲望を叶えるためだけに生きたこのモラトリアム期間のような自由さを、わたしは疎ましくも愛しく思いますし、ずっとこの調子で続けるのは難しくても、できる限り長く手放さずに生きていきたいと思っております。
 そのうちいつか、挫折してしまった創作ができるようになっているのかもしれません。

 以上です。
 親愛なるSisters&Brothers、ここまでわたしの長い長い告解を聞いてくださってありがとうございました!
 はとちゃん、このような貴重な機会を与えてくださってありがとうございました。

 あとついでに犬に噛まれたと思って『マイル22』観てください。配信とかで観られるよ。やおいに焼き払われて居ても立っても居られなくなったらおれんとこ来な(やおい大将)。

 

マイル22(字幕版)

マイル22(字幕版)

  • 発売日: 2019/07/12
  • メディア: Prime Video
 

 


 戦メリもぜひ観ていただきたいと思います。マジでときめきます。若き日のデヴィッド・ボウイ坂本龍一は本当に美しいです。タケちゃんの有名すぎるあのラストシーンも大好き。

 

戦場のメリークリスマス

戦場のメリークリスマス

  • メディア: Prime Video
 

 それでは親愛なるきょうだいたちの2020年が幸福であることを祈って!
 キラキラした欲望を追いかけるみんなたち、自分のつくりたいものをつくるみんなたち、つくらないにせよすべての創作を愛するみんなたちに、来年も祝福が降り注ぎように。
 
 Merry Happy Holidays to you all!